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尊敬する人 

 

リスペクトの対象。

誰でもその人自身が尊敬する対象の人がいて、逆にまた尊敬されたいという願望があると思います。

この時、ある人がある人を尊敬していたとして、その理由が、尊敬している対象にほぼ全てが依存している場合、この構図はおかしいものであると思います。

尊敬されている側は、確かに尊敬されることは嬉しいです。ですが、彼本人はそれで満足なのでしょうか。
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能力、価値観 

 

無力

頭の強い子弱い子はいないと主張する人がいたら、どれくらい結果が出せるかはやる気の問題のはず。

その一方、何かすごいことを実際に成し遂げた人と同じことが出来るかとその人に聞くと無理だと言われる。

結局その人の詭弁じゃん。

先天的な能力が平等なら努力が足りない。平等じゃないならそこは欠陥がある。皆さんはどちらがいいですか?一応言いますが欠陥っていうのは上手い言い訳ですよね。




`普通`に埋もれる価値観

例えば、自分がある理想を求めていたとして、周りに同じ理想をもつ人がいなかったとする。

その場合、自分を見失わないのは難しい。つまり、自分の理想が下がったり、せっかく出来たその人独自の価値観が普通のものになってしまう可能性がある。

この時、たまたま偶然同じ理想を目指している人に出会ったらその人は幸運である。二人の価値観は類似していて安心するところがいくらでも出てくる。

普通とは違う価値観ももう気にならないだろう。もはや他人に抜かれることはない。
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感動 

 

更新が遅れてすみません。




例えば次の一文を見て欲しい。

 Some men interpret nine memos.

 あなた方はこの文を見て何かを感じるだろうか。単なる英字の羅列とは考えずに、まず文の意味を読み取ろうとするだろう。そしてこの文の意味は分かるがだからなんだと考えるのかもしれない。


 我々は世の中に存在する一般に美しいと言われているものに対し素直に感動しているだろうか。もしかしたらそれが美しいと言われていることを既に知っているだけで、自分は真に感動はしていないのではないか。

 ある対象に対し、素直に感動出来るかどうかは自らが主体的に決めていくものである。他人に無理に合わせるものではない。それは本当の自分というものを見出だす機会を失う可能性も含んでいる。


 では、個人は何をもって対象を美しいと感じるのか。それはその個人の過去の経験に依ることは自明である。意識的にせよ無意識的にせよその個人の中に元々存在していた理想、または全く新しい秩序が目の前に現れた時、彼は感動する。

 もし特定の対象に感動したいのであれば、その理想を生み出す根源となる知識もある程度必要であるのかもしれない。

 例えば次の数式
e^(iπ)=-1
 数学に精通していてしかも人一倍数学が好きな人が、数学にあまり慣れていない人にいくらこの数式の美しさを説明したとしても彼は即座に感動を味わうことは出来ないだろう。感動にある程度の知識は必要である。


 そろそろ先ほどの英文のタネを明かそう。実は回文になっている。お気づき頂けただろうか。気づかなければ何でもない文であるが気づいた時は成る程と思う。

 確かにこの程度では感動とは言い難いかも知れないが、少しでも以上の議論がわかって頂けたらと思う。一応注意しておくが私が伝えたいのは単に視覚的な感動だけではない。全身で感じ得るくらいのものである。


 最後に、人生を豊かにするためにも、特定の対象に感動を求めるのではなく日々の一瞬一瞬に感動出来たらいいと思う。その為に知識を蓄える努力を惜しまないことを薦める。
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大学生 

 

大学に入学すると、高校時代と比べて急に自主性がなくなる。

そのメカニズムを考えてみた。

自分の可能性は高校までに広げる。そして大学は今までに掴んだ可能性を極める場所である。

大学から新しい可能性を探すのはもう遅い。それがわかっている人間は無駄に頑張ろうとはしない。

もし、その人が今までの自分の可能性を見捨てた時、その人は空虚になるかも知れない。。。
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趣味 

 

「それではルネサンスについて語ってください。」

突然、知人から質問されたとします。

ルネサンスでなくてもよいのですが、なんとなく知っているものを聞かれたとする。名前だけや、一応の概要は知っている場合でもよい。

あたなは質問に満足に答えることが出来るはずがない。

より詳しく答えようとするなら、どうすればよいか。そもそも答える必要があるのか。



各人、なにかしら仕事にはしていない趣味があるだろう。

その趣味は如何程のものでどう向き合うか。その答えを探りたい。



その自分の趣味は、具体的にどういうものか?自分にとってどういう存在かではなく、真に何であるか、答えられるであろうか。

一言でなくてもよい、文庫本数冊程度の量を語ることが出来るならそれに越したことはない。しかし自分から見て、少なくとも自分の回りで、そう多く語ることが出来る人間は少なくないように思われる。

十分多くを語れないならどうすればよいか。勿論、試行錯誤をするのが最もよい。資料に当たるのもひとつの手段だがそれが目的となってはいけない。(ということについてはいつか詳しく述べるつもりだが)

しかし、その中の多くの人は口をそろえてこう述べる。

「自分にとってその趣味はそこまで重要なものではないから。」

確かに、わからないでもない。では彼にとっての趣味と趣味でないものの違いは何か。

単なる好みだろうと思う。それは理由なき主体的選択だと思う。理由はあっても浅はかなものではないか。



逆に趣味程度に対し、それを系統的に分類し、一々研究する主体的行為は無駄であろうか。

自分はそんなことはないと思う。趣味だからとはいえ、いくらでも分析・研究するべきだ。そこまでする必要があるのだ。

そこに新しい発見は必ずやあるし、自ら得ることの出来た知識は、本人はもとより、本人以外にも多大な刺激となるだろう。



例えばアート。特に絵を描くことを趣味にする人なら、人を描くことに限定するだけでも、人間の様々なポーズ、筋肉、服のデザイン、髪型に精通していなければならない。更に服のデザインには言うまでもなくそれ自体様々な歴史を持つのでそれを研究するするとこれから描こうとする人をよりよく表現出来るだろう。

更に風景、建造物、人以外の動物をも描こうとすると、考察すべき対象は計り知れない。

考察なくして描けるようになることは超能力でも使わない限り決してあり得ない。



もし、趣味だとしてもそれが本当に好きならば、個々人に応じた目標を持って愛するかのように接するのも悪くないと、自分は思う。

現実には仕事や人付き合いにより、趣味に向き合う余裕がないことも多いだろう。だが、もし時間に余裕があるならその時間を無駄に過ごさずに自分の趣味についてよく考えるのもよいと思う。それが本当の意味での"時間を趣味に費やす"ということなのではないか
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